乾くるみ『イニシエーション・ラブ』|最後の2行より、自分の認知に驚いた

本・アニメ

※この記事は『イニシエーション・ラブ』の内容に触れています。未読の方はご注意ください。

『イニシエーション・ラブ』を読む前から、私は一つだけ知っていた。

「最後の2行に何かがある」

らしい。

それなら最後まで読めば、とんでもないものが待っているのだろう。

そんな期待を持ちながら読み進めた。

そして最後の2行までたどり着いた。

読んだ。

……。

何も起きなかった。


イニシエーション・ラブ (文春文庫)[ 乾 くるみ ]

最後の2行を読んでも、何も変わらなかった

最後に出てきた名前は「辰也」。

ところが私はもともと、人の名前を覚えるのがかなり苦手だ。

これは小説の登場人物に限らず、現実世界でもそうだ。

そして『イニシエーション・ラブ』を読んでいる間、自分の中にはすでに、

「主人公=たっくん」

という認識が出来上がっていた。

だからなのか。

私は「辰也」という文字を確かに見ているにもかかわらず、脳内で勝手に主人公のたっくんへ置き換えていた。

文字は辰也。

認識はたっくん。

そのまま何の疑問もなく読み終えた。

「最後の2行で何が変わるんだろう?」

「何度読んでも分からない」

「なんだこの純愛ストーリーは?」

本当にそう思っていた。

「辰也って誰!!???」

事件が起きたのは、読み終わってからだった。

その後、この本について何度か話しているうちに、

「辰也」

という名前が出てきた。

そこで初めて、

「辰也……?」

となった。

誰だそれ。

そんな人物いたっけ?

気になって本を読み返した。

すると、ちゃんと書いてある。

辰也。

その瞬間に思った。

辰也って誰!!???

どこで出てきた!?

私は一体、何を読んでいたんだ?

作者の仕掛けを見破れなかった、とかいうレベルではなかった。

私は勝手に辰也を消し去り、主人公のたっくんが最後まで恋愛を続ける、原作には存在しない謎の小説を自分の頭の中で作り上げていた。

そして、それを最後まで普通に読んでいた。

作者のミスリードに引っかかった……のか?

その後、何が起きていたのかを知り、

「ああ、そういうことだったのか」

とはなった。

ただ、不思議なことに作品の仕掛けそのものには、それほど感動しなかった。

それ以上に、

自分の認知のひどさに驚いた。

文字としては「辰也」と書いてある。

目には入っている。

それなのに、自分の頭の中では違う人物として処理されていた。

作者にミスリードされたと言っていいのかも、よく分からない。

むしろ作者が、

「ここでこの名前を見れば読者は驚くだろう」

と考えて作った仕掛けを、私はその上から勝手な認識で塗りつぶしてしまった。

そう考えると、

作者の想定をはるかに超えて、私が作者をミスリードさせてやったのかもしれない。

もちろん作者本人は何も知らないのだが。

人は、見たものをそのまま認識しているわけではない

この読書体験で一番印象に残ったのは、小説の内容ではなかった。

人間の認知や思い込みの怖さだった。

自分では文字を読んでいるつもりだった。

しかも「最後の2行に何かある」と知っていたので、普通ならかなり注意して読むはずの場所だった。

それでも見落とした。

正確には、見落としたというより、見ているのに別のものとして認識した。

それまで自分の中で作られていた前提に合わせて、新しく入ってきた情報を勝手に処理してしまったのだと思う。

人間は、目に入ってきたものをそのまま受け取っているわけではないのかもしれない。

自分がすでに持っている情報や思い込みを使いながら、目の前のものを理解している。

普段ならそんなことを意識する機会はあまりない。

この本では、それを身をもって体験してしまった。

認知が崩れることの怖さ

このとき、自分はすぐに認知症のことを思い浮かべた。

もちろん、今回のように小説の人名を一度読み違えたことと、認知症はまったく別の話だ。

ただ、

「自分では正しく認識しているつもりなのに、実際には違う」

ということが、もし日常生活の中で頻繁に起こるようになったら。

そう考えると、非常に恐ろしく感じた。

今回の出来事自体は笑い話にもできる。

実際、今ではかなり面白い読書事故だったと思っている。

でも、その瞬間に感じた怖さは本物だった。

内容よりも、忘れられない体験が残った

『イニシエーション・ラブ』が面白かったか、と聞かれると少し困る。

正直に言えば、内容は吹き飛んだ。

作品そのものより、自分に起きたことの方がはるかに強烈だったからだ。

だから自分にとってこの本は、

「面白かった本」よりも、「ある意味で忘れられない体験をもたらしてくれた本」

という表現の方が近い。

最後の2行で驚くはずだった。

ところが私は最後の2行を突破してしまい、その後になって別の意味でひっくり返された。

そんな読書体験は、おそらくもう二度とできない。

では、どんな人にこの本をおすすめするか。

今回の経験を踏まえて答えるなら、

名前をきちんと覚えられて、文字を読み間違えない人。

たぶん、そういう人なら作者が本来用意した驚きを、ちゃんと味わえると思う。

私は味わえなかった。

代わりに、それ以上に変なものを味わってしまった。


イニシエーション・ラブ (文春文庫) kindle版

コメント