東野圭吾『幻夜』感想|美冬という人間が怖い。目的もゴールも見えない実行装置

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東野圭吾『幻夜』を読んだ。

かなり長い作品で、正直なところ読むのには疲れた。

それでも最後まで引っ張られたのは、ストーリーそのもの以上に、新海美冬という人物が気になって仕方なかったからだと思う。

何を考えているのか。

何を目的にしているのか。

どこまで先を読んでいるのか。

そして、最終的にどこへ行こうとしているのか。

読んでいる自分自身も、雅也と同じように美冬という人間を追いかけていたような感覚があった。

そして読み終わって残ったものは、ほとんど一つだった。

美冬という人間が怖い。

それだけだった。


幻夜 (集英社文庫)[ 東野 圭吾 ]

美冬は、本当に「美冬」なのか

この作品で自分が特に気になったのが、美冬という人格そのものだった。

自分には、彼女が単に他人の名前を使っているというより、

「新海美冬という人物になりきろうとしている」

ように見えた。

過去の自分を捨てる。

新しい名前を得る。

その人物について調べ、その人物が持っていた価値観や憧れまで取り込んでいく。

そして、

「これからは新海美冬として生きる」

と覚悟を決める。

そんな第二の人生を歩いているように感じた。

もちろん、これは自分なりの解釈だ。

しかし、もし本当に別人になりきろうとするのであれば、名前や経歴だけをコピーしても意味がない。

その人が何を好み、何に憧れ、どんな人間になりたかったのか。

そこまで調べ、取り込んで初めて「その人らしさ」が作られる。

自分には、美冬がそこまでやろうとしているように見えた。

演じ続けたら、それはもう演技なのか

そう考えると、美冬の感情が非常に分かりにくくなる。

たとえば役者がいる。

本当に好きな人はAさん。

しかし映画の中では、Bさんを心から愛しているように演じる。

では、その瞬間にBさんへの愛は存在しているのだろうか。

演技として愛している。

しかし、本心では愛していない。

普通なら撮影が終われば役を降りることができる。

ところが美冬の場合、人生そのものが役なのではないかと思った。

舞台から降りる時間がない。

新海美冬として起き、新海美冬として考え、新海美冬として人と接し、その人生を何年も生き続ける。

そこまで行けば、

「演じている自分」

「本当の自分」

を本当に分けられるのだろうか。

自分には、彼女が役にのめり込んでいき、やがて演じていることそのものが本人になったようにも見えた。

過去の記憶だけを持ったまま、人格を別の存在へ移し替えていくような感覚だ。

周囲から見れば偽物でも、本人にとっては本物

それでも、自分は彼女を「本物の新海美冬」だとは思わない。

どれだけ完璧にコピーしても、元々は別の人間だからだ。

仮に本物がそのまま人生を歩んでいたなら、同じ判断をして、同じ人生を作ったとは限らない。

だから周囲から見れば、どこまで行っても偽物だと思う。

しかし本人にとっては違う。

本人が心の底から、

「私は新海美冬だ」

と思っているのであれば、本人の中ではそれが本物になる。

周囲から見れば偽物。

本人から見れば本物。

そのズレも、この作品の不気味さの一つだった。

一番怖いのは、なりきろうとする「覚悟」

ただ、自分が美冬に最も恐怖を感じたのは、偽物であることではない。

そこまでして別人になりきろうとする覚悟の重さだった。

いつから考えていたのか。

どこまで事前に計画していたのか。

それは分からない。

しかし、

過去を捨てる。

別の人物になる。

その人物として生き続ける。

必要なら、そのためにあらゆることをする。

その執着が異常に強い。

普通なら途中で、

「そこまでやる必要があるのか?」

と思うはずだ。

しかし美冬には、そのブレーキがほとんど見えない。

だから怖い。

雅也は、美冬を異常なほど愛していた

一方の雅也については、かなり分かりやすかった。

美冬をめちゃくちゃ愛していた。

恐らく最愛の人だったのだと思う。

最初から純粋な恋愛として始まった関係ではない。

雅也には、美冬に見られたかもしれないという弱みがあった。

その弱みから関係が始まり、徐々に彼女の計画へ乗せられていく。

しかし時間が経つにつれて、

「弱みがあるから離れられない」

だけではなく、

「美冬と一緒にいたいから離れられない」

へ変わっていったように見えた。

そして美冬の能力を知れば知るほど、その気持ちはむしろ増幅していく。

怖い。

何を考えているのか分からない。

自分よりはるかに先を読んでいる。

それなのに、ますます惹かれていく。

雅也は気が狂いそうだったのではないかと思う。

二人を繋いだのは「秘密」

雅也が美冬へ強く惹かれた理由の一つは、彼女の分からなさだったのではないかと思う。

何を考えているのか分からない。

全部を見せない。

そこに、美冬自身の人を惹きつける技術もあったのだろう。

そしてもう一つ大きいのが、秘密の共有だと思う。

それも普通の秘密ではない。

人の死に関わるような、非常に重い秘密だ。

自分の最も暗い部分を知っている。

相手の暗い部分も知っている。

そんな共有体験は、普通の恋愛とは違う結びつきを生む。

しかし、その関係は対等には見えなかった。

雅也は美冬を愛する。

美冬は雅也を使う。

だから自分には、雅也が完全に美冬の犬になっていくように見えた。

美冬に雅也への愛はあったのか

ここは今でも分からない。

そもそも、美冬の「愛」の定義が分からない。

もっと言えば、

美冬は美冬なのか。

そこから分からない。

もし彼女が新海美冬という人格を演じ続けているのであれば、雅也へ向けられた感情まで、どこまでが本心なのか判断できない。

本当の自分として愛していたのか。

新海美冬として愛を演じていたのか。

演技を続けるうちに、本当に何かが生まれたのか。

その境目が見えない。

そして自分には、彼女が過去の自分を捨てる覚悟まで決めていたように思えた。

そうだとすれば、本当の自分の愛を差し込む場所そのものが、もう残っていなかった可能性もある。

美冬は、人を支配したいわけではない

美冬には強烈な支配力がある。

しかし、自分には支配することそのものが好きな人には見えなかった。

人間は、ただの道具。

自分が作った計画を成立させるために必要だから使う。

そんな印象だった。

相手を屈服させたい。

自分に従わせたい。

そういう欲望というより、

「この人間はここで使える」

という処理に近い。

雅也もその一つだったのではないかと思う。

もちろん最初からすべてを計算して雅也を選んだとは思わない。

そこはむしろ直感だったようにも感じる。

「この人間は使える」

と見抜き、実際に使ってみたら予想以上に使えた。

そんな感じだった。

美冬の本当の恐怖は、計画性と予測精度

自分が美冬について最も恐ろしいと感じたのは、ここだった。

計画性。

そして、

人間の行動を読む精度。

さらに、

何かが起きた時の対策の速さと量。

誰かが何をする。

次に何が起こる。

その場合はどうする。

さらに別の展開になったらどうする。

あらゆる分岐に対して予防線を張っているように見える。

「こいつ、未来が見えてるのか?」

と思うほどだった。

もちろん、本当に未来が見えるわけではない。

恐らく人間観察、情報収集、推測、準備。

それを異常なレベルで行っているのだと思う。

そして、もともとの頭の良さに加えて、

「絶対にこの第二の人生を成立させる」

という執念が、その能力をさらに研ぎ澄ませているように感じた。

善悪より「機械」に近い

美冬を悪人かと聞かれると、もちろん行為としては悪いことを大量にしている。

しかし自分には、善悪という言葉で見るより、

機械

のように感じられた。

目的がある。

そのために必要な処理をする。

障害が出る。

処理する。

人間が必要になる。

使う。

不要になれば次へ進む。

本当に必要なことだけを淡々とこなしていく。

感情を挟まず、決めたルートを異常な精度で進む実行装置のようだった。

しかし機械なら、まだ理解できる。

機械はそのために作られているからだ。

美冬は人間だ。

人間なのに、そこまでやる必要がない。

だから機械より怖い。

目的が分からないのに、異常な速度で進んでいく

そして最も怖いのが、

美冬のゴールが分からないことだった。

社会的に見れば、彼女は成功者だと思う。

本人から見ても、周囲から見ても成功者。

欲しいものを手に入れ、自分の思い通りに人生を動かしている。

しかし、

「では、どこまで行けば満足なのか?」

が分からない。

金なのか。

地位なのか。

成功なのか。

新海美冬として生き切ることなのか。

何が最終目的なのか見えない。

普通の人間なら目的が分かれば、行動も多少は理解できる。

しかし美冬は、

目的が分からないのに、異常な精度とスピードでどこかのゴールへ向かっている。

しかも、そのゴール自体が存在するのかさえ分からない。

そこが恐ろしい。

雅也が最後に噛みついた理由

終盤の雅也は、飼い主へ噛みつく犬のように見えた。

単純な復讐だったのか。

それだけではないように感じた。

美冬は何をやっても予定通りに進める。

何をしても先を読まれている。

自分はこの先どうなるのか。

いつか自分も切り捨てられるのか。

そして、美冬は本当に自分を見ているのか。

そんな恐怖があったのではないかと思う。

もしかすると雅也は最後に、

「お前の予定にないことを俺がしたら、お前はどうする?」

と試したかったのかもしれない。

自分が本当に牙を向いた時、それでも美冬は平然としていられるのか。

その時初めて、自分という人間を見てくれるのか。

そんな確認にも見えた。

そして自分には、美冬はそれすらある程度想定していた可能性があるように感じられた。

これはあくまで自分の仮説だ。

しかしそう考えたくなるほど、美冬の先読み能力は異常だった。

「幻夜」とは何だったのか

タイトルの『幻夜』について考えた。

雅也から見れば、最初の殺人によって、本来歩むはずだった人生が書き換えられた。

そこから美冬という掴めない存在を追い続ける。

愛している。

しかし何を考えているのか分からない。

一緒にいる。

しかし決して手に入らない。

雅也にとって、美冬そのものがだったようにも思う。

一方で美冬側から見ると、今度は本当の新海美冬こそ幻になっていくようにも感じられる。

本物は確かに存在した。

しかし偽の美冬がその名で生き、その人格を作り、その人生を現実世界で積み上げていく。

すると、本物なのに存在しない者と、偽物なのに現実に存在し続ける者が生まれる。

どちらが幻なのか。

だんだん分からなくなってくる。

まとめ

『幻夜』を読んで一番残ったものは、

美冬というキャラクターへの恐怖。

ただそれだけだった。

美冬は何者なのか。

何を目的にしているのか。

雅也を愛していたのか。

どこまで計画していたのか。

そして、どこへ向かっているのか。

何一つ完全には掴めない。

しかし一つだけ分かる。

目的へ向かう精度だけは異常に高い。

計画する。

読む。

備える。

処理する。

そして前へ進む。

ゴールが分からないまま、その速度だけが異常に速い。

自分には、そこが何より恐ろしく感じられた。

かなり長い作品なので読むのには疲れた。

それでも美冬という人物の正体を知りたくて、雅也と同じように追い続けてしまった。

悪女が好きな人。

圧倒的な女性に男が取り込まれていく関係が好きな人。

そして何より、

「何を考えているのか分からない人間」の恐ろしさを楽しめる人

には、強烈に印象へ残る作品だと思う。

自分には、美冬は魅力的というよりただ怖かった。

機械のほうがまだマシだ。
人間なのに、そこまでやる必要がない。

そんな人物だった。


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