『コンビニ人間』というタイトルを初めて見たとき、私は「24時間がんばる人間」の話なのかと思った。
コンビニは24時間営業。
だからコンビニ人間とは、24時間がんばり続ける人間なのだろうか。
もちろん実際に読んでみると、そんな単純な話ではなかった。
読み終わったあとに自分の中に一番残ったものは、「普通とは何か?」という問いよりも、むしろ「適材適所の大切さ」だったように思う。
社会的に評価される場所と、本人に合っている場所は違う
世の中には、社会的に高く評価される仕事もあれば、低く見られがちな仕事もある。
コンビニ店員という仕事も、残念ながら「いつまでそんな仕事をしているの?」と言われてしまうことがある。
『コンビニ人間』の中でも、結婚しないのか、いつまでコンビニで働いているのか、といった周囲からの目が描かれていた。
自分は、こういう価値観の押しつけがかなり嫌いだ。
さらに嫌なのが、
「その方があなたも幸せでしょう?」
という前提まで一緒についてくることだ。
結婚した方が幸せ。
もっと社会的に評価される仕事をした方が幸せ。
普通の生き方をした方が幸せ。
本当にそうなのだろうか。
本人の適性と、社会から見た評価は別のものだと思う。
社会的には低く見られている場所でも、その人にとっては最も能力を発揮できる場所かもしれない。
だったら、好きなように生きさせてくれ。
そう思う。
ただし「好きに生きればいい」だけでもない
とはいえ、自分は「世間の目なんて全部無視して好きに生きろ」とまでは思わない。
仕事には収入もある。
将来性もある。
その仕事が今後も続くのかという問題もある。
本人に適性があったとしても、その仕事だけでは生活できないのであれば、長期的には苦しくなるかもしれない。
逆に給料がそれほど高くなくても、安定して生活できて、その仕事が将来まで続き、本人にも合っているのであれば、それはかなり良い生き方だと思う。
だから、自分に合った生き方を考えるときには、
価値観。
適性。
将来性。
そして持続可能性。
このあたりを一緒に考えた方がいいのではないか。
適性のある仕事でも続けられなければ困る。
社会的には立派な仕事でも、本人にまったく合っておらず続けられないのであれば、それもまた困る。
結局は「続けられるか」ということも、かなり重要なのだと思う。
コンビニにいる主人公は、むしろ優秀に見えた
主人公は、社会から見ると少し変わった人として扱われている。
ただ、自分にはコンビニで働いている主人公が、かなり優秀な人にも見えた。
仕事熱心。
真面目。
店が何を求めているかを理解し、それを正確に実行する。
自分だったら、あんなに上手にはできないと思う。
少し真面目すぎるようにも見える。
けれど、その「行き過ぎた真面目さ」が、コンビニという場所では能力として発揮されている。
人間にはそれぞれ向いている場所がある。
社会全体に器用に適応できる人だけが優秀なのではなく、ある特定の場所に入ったときに、とても高い能力を発揮できる人もいる。
主人公を見ていると、そんなことを考えた。
ルールがあるからこそ自由になれる
そして、この作品を考えていて一番面白いと思ったのが「ルール」だった。
普通に考えると、ルールとは自由を制限するものだ。
しかし、人によっては逆なのではないか。
ルールがないからこそ、どうしていいか分からない。
自由にしていいと言われても、周囲に迷惑をかけてはいけない。
空気を読む。
相手に合わせる。
ここまではやる。
でも、ここから先はやりすぎ。
社会には、こうした曖昧な調整がとても多い。
そのためには分別や裁量が必要になる。
それが得意な人には当たり前でも、苦手な人にとっては、
「どこまでやれば正解なのか分からないのに、間違えると怒られる」
という世界にもなり得る。
一方、コンビニにはかなり明確なルールがある。
どう接客するのか。
何をするのか。
どこまでやるのか。
その範囲が決まっている。
ルールを覚えて、それに従えばいい。
そう考えると、ルールは自由を奪うだけのものではない。
むしろ、
「ここまでは解放していい」
と教えてくれるリミッターにもなる。
境界線がはっきりしているからこそ、その内側では安心して自分の能力を出し切れる。
主人公にとってコンビニは、決められたことを演じる場所というより、むしろ一番自然な自分を出せる場所だったのではないかと思う。
外の社会で「普通の人間」として振る舞おうとしているときの方が、誰かの言葉や行動をコピーしている。
コンビニの中では、ルールに従っているのに、そこにいる主人公の方がずっと本人らしく見える。
そこが面白かった。
他人はどこまで口を出すべきなのか
では、周囲は何も言ってはいけないのか。
自分はそうとも思わない。
本人が明らかに間違いや過ちを犯しそうなときには、止めてくれる人がいた方がいい。
ただ、それで十分なのではないかとも思う。
結婚するのか。
どんな仕事をするのか。
人とどのくらい関わるのか。
そういったことまで、他人が「こっちの方が幸せだ」と決める必要はない。
あとは一緒に笑い合えれば、それでいい。
そして、その人が他人と笑い合うことさえ望んでいないのなら、それでもいいのだと思う。
社会のフィルターは必要。でも通しすぎてもいけない
将来を考えるなら、まず安定して暮らせる道を選んでみるのも悪くない。
実際に自分に合っているかなんて、やってみなければ分からない。
やってみて合わなければ、そのとき別の道へ行けばいい。
そのためにも、ある程度の蓄えを作っておけば選択肢は増える。
社会が勧める安定した生き方には、それなりの合理性もある。
だから社会の価値観をすべて捨てればいいわけではない。
しかし、そのフィルターを通しすぎるのも良くないと思う。
ほとんどの人には、何かしら良いところがある。
そして、その能力を発揮できる場所も、どこかには存在するのではないか。
せっかく適性のある場所を見つけても、
「そんな仕事は普通じゃない」
「もっとちゃんとした生き方をしなさい」
という理由だけで捨ててしまうのは、もったいない。
かといって、社会のフィルターをまったく通さないのも危うい。
大切なのは、その間なのだろう。
『コンビニ人間』を読んで自分に一番残ったものは、適材適所の大切さだった。
普通に見えることよりも、
本人がその場所で自然に生きられること。
能力を発揮できること。
そして、それを無理なく続けられること。
そういう場所を見つけられた人は、案外幸せなのかもしれない。



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