東野圭吾『聖女の救済』で強く記憶に残っているのは、やはり犯行に使われたトリックだった。
アイデアそのものがまずすごい。
しかし、この作品の怖さは「よくこんな方法を思いついたな」で終わらない。
それを本当に実行し、長期間にわたって成立させ続ける人間がいる。
そこまで考えると、この作品は科学的なトリック以上に、人間の狂気を描いたミステリーだったように思う。
トリックの発想と、実行する狂気は別物
『聖女の救済』のトリックには、二種類のすごさがある。
一つは純粋なアイデアとしてのすごさだ。
日常生活の中にあるものを利用し、犯行を成立させる。
そんな方法を思いつく発想力そのものが面白い。
しかし、もう一つはまったく別の方向を向いている。
思いついたとして、本当にそれをやるのか。
しかも一瞬の犯行ではない。
長期間にわたり、ある状況を崩さず維持し続けなければならない。誰かが予定外の行動を取れば成立しなくなる可能性もある。
それを毎日の生活の中で意識し続ける。
これは頭がいいというより、執念だ。
アイデアとしては「すごい」。
実行する人間として見ると「狂っている」。
この二つは似ているようで、まったく別のベクトルにある。
そして、その両方を一つのトリックに乗せたからこそ、この事件は強烈に印象に残った。
努力や執念そのものに価値があるわけではない
綾音の行動には、とてつもない努力が必要だったはずだ。
けれど、努力や執念というものは、それだけで立派なものではない。
何のために使うのかによって価値は変わる。
殺人を成功させるために努力する。
殺人が発覚しないように努力する。
どれほど徹底されていても、それを「すごい努力」と肯定的には評価できない。
むしろ、
その執念を別のことに使えなかったのか。
という残念さが残る。
綾音には、別の人生を選ぶ道もあったのではないか。
しかし本人には、それが見えなくなっていた。
傷ついたこと自体より、その後の人生まで怒りや復讐に渡してしまったことが勿体ない。
精神的な強さとは、何も感じないことではない。
傷ついても、怒っても、最後には相手やその感情の支配から抜け、自分の人生へ戻ってこられることなのだと思う。
その意味で、綾音は非常に強い執念を持ちながら、同時に精神的には弱い人物にも見えた。
原因があっても、殺人の評価は変わらない
もちろん、綾音がそうなった背景には夫の態度がある。
結婚や出産を条件のように扱い、人間関係まで契約的に処理してしまう考え方には冷たさを感じる。
条件そのものについて互いに理解していたのであれば、単純に「夫だけが全面的に悪い」とも思わない。
それでも、人は物や道具ではない。
一度好きになり、人生を共にしようとした相手であるなら、条件だけでは片づけられない感情や責任もあるだろう。
そうした態度が、綾音を追い詰めた原因の一つだったとは思う。
ただし、原因を理解することと、行為を許すことは別だ。
傷つけられたからといって殺人が許されるわけではない。
「被害者でもあり加害者でもある」というより、殺人について言えば綾音は加害者だ。
動機には理由がある。
しかし、理由があれば一線を越えていいわけではない。
『聖女の救済』というタイトルが一番怖いのかもしれない
改めて考えると、一番不思議なのはタイトルだった。
なぜ殺人犯が「聖女」なのか。
第三者が綾音を聖女と評価していると考えると、どうにも納得しにくい。
しかし、これを綾音自身の主観を表したタイトルだと考えると、一気に怖くなる。
これはあくまで作品を読んでの一つの解釈だが、彼女の中では、
「私は復讐している」
ではなく、
「私は人を救っている」
という認知になっていたのではないか。
自分と同じように傷つけられる人間を、これ以上出さない。
そのために自分が止める。
もし綾音がそんな論理で自分の行為を捉えていたとすれば、『聖女の救済』というタイトルはまったく違った意味を持つ。
他人から見れば、ただの復讐であり殺人だ。
しかし本人の中では、人を救うための行為になっている。
「みんなを救うために、私は頑張る」
もしそんな認知で長期間の犯行計画を実行していたとすれば恐ろしい。
狂気とは、感情的に暴れ回ることだけではない。
普通なら「ここを越えてはいけない」と理性が止める場所で、他人や社会の視点が入らなくなり、自分の論理だけで善悪まで作れる状態もまた狂気なのだと思う。
しかも綾音は、冷静さを失っているわけではない。
むしろ非常に冷静だ。
理性を失った狂気ではなく、理性が狂った論理を実行するために使われている。
そこに、この犯人独特の怖さがある。
医学的な意味での「サイコパス」という話ではない。
ただ読者として見ると、自分だけの論理の中で殺人さえ「救済」に変換できてしまう認知には、サイコパス的とも言いたくなる不気味さがある。
そう考えると、『聖女の救済』は想像していた以上に怖いタイトルだった。
湯川が簡単に答えへ届かないのも面白い
ガリレオシリーズでは、科学や物理現象を湯川が理屈によって解き明かしていく面白さがある。
しかし『聖女の救済』では、湯川もどこか素直に答えへ到達できていない印象が残った。
それが面白かった。
今回の事件は、物理的な仕組みだけ理解すれば終わるものではない。
人間が本当にそこまで執念を持てるのか。
という問題が入ってくる。
物理現象なら計算できる。
しかし感情は計算できない。
「普通の人ならそんなことはしない」という前提そのものが、犯人には当てはまらない可能性がある。
だからこの作品は、ガリレオシリーズでありながら、かなり心理ミステリー寄りに感じる。
真相が明らかになった瞬間も、
「なるほど、解けた!」
という爽快感以上に、
「そこまでやったのか」
という犯人への恐怖の方が強く残った。
まとめ
『聖女の救済』は、非常に印象的なトリックを持ったミステリーだ。
発想そのものも面白い。
しかし今振り返ってみると、本当に怖いのは仕掛けではなく、それを成立させる人間だった。
長期間にわたり状況を維持する執念。
自分の人生まで復讐に使ってしまう勿体なさ。
そして、もし本人の中で復讐が「救済」に変換されていたとすれば、自分の行為を善として完結させてしまえる認知。
狂気と、サイコパス的な怖さを感じさせるタイトル。
犯人の認知はいったいどうなっているのか。
読み終えた当時はトリックのすごさが強く残った作品だった。
けれど改めて考えてみると、『聖女の救済』という題名まで含めて、想像していた以上に怖い作品だったのかもしれない。


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