『ロートレック荘事件』を読んでから時間が経っているので、正直なところ細かいストーリーはかなり忘れている。
人物関係も、犯人の動機も、舞台となった場所の細かな構造もほとんど残っていない。
それなのに、一つだけ妙に鮮明に覚えているものがある。
犯人を最初から犯人候補に入れていなかったことだ。
そして、それを利用した認知トリックの衝撃は、これまで読んだミステリーの中でもかなり上位に入る。
「犯人ではない」と判断した記憶すらない
この作品には、足が不自由な人物が登場する。
自分は読んでいる最中、その人物について、
「足が不自由だから犯人ではない」
と考えて可能性を否定したわけではなかった。
もっと自然だった。
最初から犯人候補の中に入っていなかった。
足が不自由なら、当然ながら健常者より移動には時間がかかる。
自由に動き回ることも難しい。
殺人事件が起きたとき、そんな人物よりも自由に動ける人物を疑う。
少なくとも自分の中では、それは推理ですらなかった。
あまりにも当たり前の前提として処理されていた。
だから真相を知ったときに驚いた。
犯人が意外だったこと以上に、
「作者はそこを利用するのか」
と思った。
自分の認知そのものがトリックに使われていた
ミステリーのトリックというと、密室や時間差、アリバイ工作など、「どうやって犯行を成立させたのか」というものを思い浮かべやすい。
もちろん『ロートレック荘事件』にも、調理用エレベーターを利用した仕掛けなど、犯行を成立させるための工夫がある。
これも面白かった。
足が不自由という制約があるなら、その条件の中で成立する方法を考える。
その結果として生まれた仕掛けには、「なるほど」と思わされた。
ただ、それ以上に強烈だったのが認知トリックだった。
作者が読者に露骨な嘘をついたわけではない。
「この人物は犯人ではない」と説明されたわけでもない。
自分自身が勝手にその人物を除外していた。
犯人を隠すために利用されたのが、作中の証拠だけではなく、読者自身の常識だった。
ここがものすごく上手い。
普段は「どうやって?」より「なぜ?」が気になる
自分はミステリーを読んでいても、犯人当てが得意ではない。
読んでいる最中には一応考えているつもりなのだが、トリックから論理的に犯人へたどり着くことはほとんどできない。
そもそも自分が気になりやすいのは、
「どうやって殺したのか?」より「なぜ殺したのか?」
の方だ。
犯罪そのものより、そこまで人間を追い込んだ理由や感情の方が気になる。
ところが『ロートレック荘事件』では、その肝心の動機すら今ではほとんど覚えていない。
それどころか、「どうやって?」という部分までかなり吹き飛んでいる。
残っているのは認知トリックの衝撃だけだ。
普段なら気になるはずの「なぜ?」も、ミステリーとして楽しむ「どうやって?」も押し流してしまった。
それだけ一発の驚きが強かったのだと思う。
先入観は、なくせるものではない
この作品を思い返していると、先入観についても考えてしまう。
「足が不自由なら自由に動くのは難しい」
これは完全に間違った認識ではない。
実際に移動には制約があるだろうし、何かをするときに健常者より難しい場面も多い。
だから自分は自然に犯人候補から外した。
そして現実でも、人間はこういう判断を大量にしているはずだ。
相手の身体、立場、職業、雰囲気。
そこから「この人はこういう人だろう」「これは危険だろう」「こういうことは難しいだろう」と予測する。
先入観というと悪い意味で使われやすいが、自分は先入観そのものをなくすことはできないと思う。
むしろ、なくなったら生きていくのが難しい。
危険そうなものを見て避けるのも、過去の経験や先入観があるからだ。
同時に、
「この人は困っているかもしれない」
と考えるからこそ、優しさや思いやりも生まれる。
先入観には悪い面だけではなく、人間が行動するために必要な面もある。
ただし、
それはあくまで予測であって、事実とは限らない。
そのことを忘れた瞬間、先入観は盲点になる。
『ロートレック荘事件』では、まさにその盲点を突かれた。
画家という職業にも少し考えさせられた
もう一つ印象に残っているのが、画家という職業だった。
自分は読んでいるとき、足が不自由でも画家なら仕事として成立しやすいのではないか、と感じていた。
手が使えるのであれば絵を描くことはできる。
さらに芸術は、一般的な仕事と比べて「何時間働いたからいくら」という価値の決まり方をしない。
作品そのものに価値がつく。
そのため身体的な障害が、他の職業よりもデメリットになりにくい部分があるのではないかと思った。
ただ、よく考えると、これは希望というより厳しさの方が大きい。
身体的な制約によって普通の仕事の選択肢が狭くなり、その結果として才能に依存する不安定な仕事を選ばざるを得ないとしたら、それは相当大変だ。
現在は障害者雇用などの制度もあるが、制度があることと、本人が自由に職業を選べることは同じではない。
選択肢が狭くなるという現実そのものは重い。
ただし、自分の中ではそこへの同情と犯罪への評価は完全に別だ。
境遇が大変だったことには同情できる。
しかし、
罪は罪だ。
大変な境遇だったことが、そのまま犯罪を許す理由にはならない。
場所の切り替わりは少し追いにくかった
読んでいて少し難しく感じた部分もある。
場面、特に場所が細かく切り替わるため、途中では「今どこだったか」を追うのが少し面倒になった。
最初は把握しようとしていたが、途中からは細かな位置関係を気にせず、そのままストーリーを追っていた。
大筋は理解できたものの、現在になって細かな舞台構造をほとんど覚えていないのは、この読み方も影響していると思う。
とはいえ、それ以外に大きく不満だった点は特に残っていない。
人物も動機も忘れた。それでも読んでよかった
『ロートレック荘事件』について、今の自分は驚くほど多くのことを忘れている。
人物も薄い。
犯人の動機も覚えていない。
館そのものの雰囲気も、それほど残っていない。
再読して伏線を確認したいという気持ちもあまりない。
自分は本を読むとき、細部を検証するよりも、なんとなくストーリー全体を楽しむタイプだからだ。
それでも、
読んでよかった。
認知トリックの衝撃だけは今でも残っている。
むしろ他の部分が薄れてもそこだけ残っていること自体が、この作品らしさなのかもしれない。
「意外な人物が犯人だった」というだけではない。
自分がその人物を最初から疑ってすらいなかった。
しかも作者は、その無意識の判断まで計算していた。
自分では色々な可能性を考えているつもりでも、認識すらしていない先入観までは簡単には消せない。
そんなことを、ミステリーのトリックとして実際に体験させられた。
『ロートレック荘事件』は、自分にとってそんな作品だった。
犯人探しが好きな人なら、特に面白く読めると思う。
ただし、この作品は真相を知らずに読むからこそ強烈なのだと思う。
これから読むなら、できるだけ何も調べずに読んだ方がいい。
そして読み終わったあと、
「自分は最初から誰を疑っていなかったのか」
を振り返ってみると面白いかもしれない。



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