伊藤計劃『虐殺器官』を読んだ。
正直に言うと、細かなストーリーや人物関係については、すでにかなり記憶が薄くなっている。
ただ、それでも強く残っているものがある。
言葉だ。
言葉には、人と人が分かり合うための力がある。
自分の考えていることを伝える。
相手が何を考えているのかを知る。
気持ちを共有する。
人間が社会を作るうえで、言葉は欠かせない。
でも同時に、
言葉には、人を動かす力もある。
『虐殺器官』を読んで、自分はそのことをかなり強く意識した。
言葉は素晴らしい。
そして、かなり怖い。
作家という「言葉のプロ」が、言葉を扱う
この作品を読んでいて少し面白いと思ったのが、
作家という職業そのものが、言葉を使って人を動かす仕事でもある
ということだった。
もちろん「操る」という意味ではない。
でも小説家は、文章によって読者に風景を見せる。
悲しいと思わせる。
怖いと思わせる。
ある人物を好きにさせたり、嫌いにさせたりする。
存在しない世界を、本当にそこにあるように感じさせる。
そう考えると、作家はかなり高度に言葉を扱う職業だと思う。
そんな作家が、
「言葉はどこまで人間を動かせるのか」
というテーマを扱っている。
しかも作品の中でも言語そのものが重要な要素になっている。
自分にはそこが少し面白かった。
だからなのか、この作品は作家や言葉を仕事にしている人ほど、また違った読み方ができるのかもしれないとも思った。
言葉は、人と分かり合うためにある
言葉がなければ、人間は他人の考えていることを正確には理解できない。
もちろん表情や行動でもある程度は伝わる。
でも、
「私はこう思っている」
「これは嫌だった」
「あなたにこうしてほしい」
と伝えるためには言葉が必要になる。
だから言葉は、本来とても重要なコミュニケーションの道具だと思う。
しかし、その便利さには最初から別の性質も含まれている。
相手に何かを伝えるということは、相手の考え方に影響を与えることでもある。
ここが難しい。
「伝える」と「動かす」の境界は曖昧
誰かに、
「これをしたほうがいいよ」
と言う。
善意かもしれない。
相手を助けたいだけかもしれない。
でも、その言葉によって相手が行動を変えれば、
結果として相手を動かした
とも言える。
広告もそうだ。
教育もそうだ。
政治的な演説もそうだ。
ニュースもそうだ。
SNSで誰かが発した言葉もそうだ。
そして小説だってそうだと思う。
言葉を受け取ったことで、何かを好きになったり、嫌いになったり、考え方が変わることはある。
だから、
「対話」と「操作」の境界は、思っているより曖昧なのかもしれない。
『虐殺器官』は、その曖昧さをかなり極端なところまで持っていった作品のように感じた。
悪意がなくても、人は動かせてしまう
ここが特に怖い。
誰かを操るというと、
悪人が相手を騙して、自分の思い通りに動かす。
そんなイメージがある。
でも実際には、悪意がなくても人を動かすことはできる。
「あなたのためを思って言っている」
という言葉だってそうだ。
本当に善意かもしれない。
それでも相手にとっては、大きな影響を与えることがある。
だから言葉を使う側は、
自分が相手に何を与えているのか
を少し意識したほうがいいのだと思う。
そして、受け取る側も同じだ。
誰かの言葉によって選択肢の見え方を変えられている可能性はある。
「自分で考えて決めた」
と思っていても、その前提を誰かから与えられていることだってある。
話す側にも、受け取る側にも責任がある
だからこれは、
言葉を使う人だけが気をつければいい
という話でもないと思う。
双方に言える。
話す側は、
「自分の言葉が人を動かす可能性がある」
と知る。
受け取る側は、
「自分はいま、この言葉によってどう影響されているんだろう」
と少し考える。
もちろん、そんなことを毎回やっていたら会話なんてできない。
でも、
言葉というものには元々そういう力がある
と知っているだけでも違うと思う。
自分にとって『虐殺器官』は、そのことに気づかせてくれる作品だった。
高度な技術の世界で、最後まで人を動かすのは言葉
『虐殺器官』には、高度な軍事技術やナノマシンのような未来的な要素が出てくる。
読んでいる時、自分はかなりゲームの『メタルギア』シリーズを連想した。
軍事。
テクノロジー。
管理された身体。
巨大なシステム。
そんな未来的なものが並んでいる。
でも、その世界で非常に大きな力を持つものが、
言葉
なのが面白い。
どれだけ科学が進歩しても、
人間を最後に動かすものは、ものすごく古くから存在する言葉だったりする。
そこには少し皮肉のようなものも感じた。
社会は効率化する
現代社会は基本的に、効率化する方向へ進んでいると思う。
速くする。
安くする。
誰でも同じようにできるようにする。
無駄をなくす。
標準化する。
多くの人が生きやすくなるように社会を作ろうとすれば、これはある意味当然だ。
一人にしかできないものより、誰でも再現できたほうがいい。
時間がかかるものより、短時間でできたほうがいい。
社会全体を見るなら、そのほうが便利だ。
でも、それとは正反対の方向に進むものもある。
非効率なのに、残り続けるもの
歴史に残るものを考えると、
必ずしも効率的なものばかりではない。
小説。
音楽。
絵。
思想。
手仕事。
あるいは何かに異常なほど時間をかける行為。
社会全体の効率だけで見れば、
「そこまでやる必要ある?」
と思うものもある。
でも、そういうものが何百年も残ったりする。
むしろ社会が効率化すればするほど、
代用できないもの
の価値が目立ってくるようにも思う。
社会に逆らっているのに、社会の中で生き残る
自分が面白いと思うのはそこだ。
多数の人が生きやすい方向へ社会が進んでいるのに、
その方向とは正反対のものが存在する。
効率が悪い。
生産性も低い。
大量生産もできない。
社会の合理性だけを考えれば消えてもおかしくない。
それでも残っている。
しかも時には、
社会から高く評価されている。
そこに少し美しさを感じる。
ある意味では反社会的なのに、
その反社会的な部分を残したまま、社会の中で生存している。
これはかなりすごいことだと思う。
『虐殺器官』を読んでいると、そういうものもこの世界にはある、と提示されているように自分には感じられた。
言葉も、かなり非効率なものなのかもしれない
考えてみれば言葉も、かなり不完全だ。
誤解する。
伝わらない。
同じ言葉でも人によって意味が違う。
言葉にしようとした瞬間に、感情が少し変わってしまうこともある。
ものすごく非効率だ。
もし完全に意思を伝達できる技術があれば、そちらのほうが効率的なのかもしれない。
それでも人間は言葉を使い続ける。
曖昧で、
不完全で、
危険でもある。
それでも代用しきれない。
そこにもまた、言葉の面白さがあるように思う。
主人公はかなり人間っぽかった
作品全体では言葉の力が強く印象に残った。
一方で主人公については、
かなり人間っぽい人
という印象が残っている。
社会にうまく適応しているように見える。
その世界で求められる仕事をこなし、周囲に合わせて生きている。
でも、自分にはどこか、
頑張って社会に適応している
ように見えた。
軍人だから、ということだけではない。
もっと根本的な部分で、
主人公の本質は、その社会が求めるものと正反対なのではないか。
そんな感覚があった。
社会に合わせている自分と、本当の自分
人は社会で生きる以上、ある程度は合わせなければならない。
仕事ではこう振る舞う。
人前ではこう話す。
こういう時にはこうする。
誰でも少しくらいは演じていると思う。
主人公にも、そういうものを感じた。
外側は社会に適応している。
でも内側まで完全に適応しているわけではない。
むしろ、
本質はかなり遠いところにある。
だからこそ、いろいろな人間との出会いが主人公を変えていくように見えた。
愛や言葉によって、本質が浮かび上がっていく
主人公が最後に突然別人になったというより、
自分には、
元々そこにあったものが、少しずつ表に出てきた
ように感じた。
人と会う。
言葉を交わす。
誰かを思う。
愛というものに触れる。
そうやって、社会に適応するために作っていた外側が少しずつ剥がれていく。
そして、
「自分は本当はどういう人間なのか」
が浮かび上がってくる。
その過程は、幸福とは限らない。
むしろかなり苦しいと思う。
本当の自分で生きることは、幸せとは限らない
社会にうまく適応できていた人間が、
自分の本質に気づく。
もしその本質が社会と相性の悪いものなら、当然生きづらくなる。
だから、
「本当の自分に気づけば幸せになれる」
とは限らないと思う。
むしろ気づかないほうが楽だった可能性もある。
それでも、
本質のまま何かを選ぶことによって、
幸福を感じる可能性はゼロではない。
社会に適応していることと、幸せであることは同じではない。
社会から外れていることと、不幸であることも同じではない。
主人公を見ていると、そんなことも考えた。
言葉には、二つの顔がある
結局、自分が『虐殺器官』から一番強く感じたのは、
言葉の両義性
だった。
言葉は人と分かり合うためにある。
でも同じ言葉で、人を動かすこともできる。
励ますこともできる。
傷つけることもできる。
愛を伝えることもできる。
憎しみを広げることもできる。
悪意がなくても、人の判断を変えることができる。
だから言葉は素晴らしい。
そして同じ理由で、怖い。
まとめ
『虐殺器官』を読んで、一番印象に残ったのは、
言葉というものが本来持っている力
だった。
言葉は人を理解するためのものだ。
でも、人を動かすための道具にもなる。
そしてその境界は、とても曖昧だ。
悪意を持った人だけが言葉で人を動かすわけではない。
善意でもできる。
教育でもできる。
広告でもできる。
作品でもできる。
日常会話でもできる。
だから、
話す側も、受け取る側も、言葉にはそういう性質があると知っていたほうがいい。
自分はそう思った。
どれだけ技術が進歩しても、
社会が効率化しても、
人間は言葉を使う。
不完全で、
曖昧で、
誤解も起きて、
時には危険で、
それでも代用できない。
そこには少し、美しさすら感じる。
『虐殺器官』は、
言葉は人を理解するためのものであり、同時に人を動かすためのものでもある。
その当たり前だけれど忘れやすい事実を、かなり極端な物語を通して見せてくれる作品だった。




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