道尾秀介『向日葵の咲かない夏』感想|認知と思いやりが、狂った世界を日常に変える

本・アニメ

道尾秀介『向日葵の咲かない夏』を読んだ。

かなり怖い作品だった。

ただ、自分が感じた怖さは、事件そのものや怪奇的な描写よりも、人間の認知そのものの恐ろしさだった。

人は、自分が見ているものを現実だと思って生きている。

しかし、その認知と周囲から見えている現実の差が大きくなればなるほど、恐ろしいことになる。

この作品は、そのズレを極端な形で見せてくる。


向日葵の咲かない夏 (新潮文庫 新潮文庫)[ 道尾 秀介 ]

認知がおかしいからこそ、自分では気づけない

認知が狂っていることも怖い。

しかし、それ以上に厄介なのは、認知が狂っているからこそ、自分ではそのことに気づけないことだと思う。

一度「これはこういうものだ」と思い込んでしまえば、その後の出来事まで、その前提に沿って解釈されてしまう。

これは自分にも多少経験がある。

以前『イニシエーション・ラブ』を読んだ際、ある名前を別の人物名として認識したまま読み進めてしまい、本来起こるはずだった読書体験そのものが全く違うものになった。

文字はそこにある。

しかし、自分の頭が別のものとして処理してしまえば、本人にとってはそれが現実になる。

『向日葵の咲かない夏』は、それをさらに極端にしたような恐ろしさがある。

主人公は頭が悪いのではなく、むしろ頭が良すぎる

主人公については、単純に認知がおかしい人間とは感じなかった。

むしろ、頭が良すぎる。天才に近いのではないかと感じた。

だからこそ怖い。

一度前提がズレても、その高い知性によって、自分の世界の中で論理を成立させることができる。

普通なら途中で矛盾して、

「何かおかしい」

となるところでも、その矛盾すら自分の認知の中で処理してしまえる。

知性が現実へ戻るための道具ではなく、狂った世界をより精密に構築する道具になっている

周囲から見れば、それは恐怖だと思う。

本人の中では筋が通っている。

しかし、その前提となっている世界そのものを共有できない。

孤立すると、認知を比較する機会まで失われる

主人公の一人でいる時間も、その認知をさらに鋭くしているように感じた。

人間は普通、

「自分にはこう見えているけれど、他人にはどう見えているんだろう」

と外部と比較する機会がある。

その比較によって、自分の認知を多少修正できる。

しかし孤立すれば、その機会そのものが減っていく。

そして、

比較しない。

比較する必要を感じない。

やがて、比較する必要すらなくなる。

そこまで行くと非常に危険だと思う。

社会に適合することと、個人の自由

だからといって、個人の自由を捨てて社会に合わせ続ければいいとも思わない。

外部の意見を気にしすぎれば、今度は他人に影響されるだけの、自分のない人間になる。

必要なのは、その中間だと思う。

自分の視点と外部からの視点を見比べる力。

自分の認知を常に疑い続ける必要はない。

ただし、

自分が常に正しいとは思わないこと。

これは重要だと思う。

人間は経験を通して認知を塗り替えながら成長していく。

だからこそ、認知にはアップデートが必要になる。

ただ、それすら万能ではない。

そもそも認知そのものに問題があれば、自分でそれに気づくことすらできない。

解決策が存在しない可能性がある。

そこまで考えると、この作品は余計に恐ろしくなる。

完全なる個は、思いやりを失うことでもある

個人の自由は必要だ。

しかし社会で生きる以上、他人への気遣いも必要になる。

「自分はこう思う」

だけではなく、

「相手にはどう見えているのか」

を考える。

これは単なる同調ではなく、他人の存在を認識することでもある。

だから、完全なる個を目指し、

「自分がどう思うかだけが重要で、他人は関係ない」

となってしまえば、それは思いやりをゼロにすることとかなり近いのではないかと思う。

人間が社会を作って生きる以上、最低限の現実を共有する必要がある。

一番ゾッとしたのは「妹」だった

この作品で特にゾッとしたのが、妹についての事実だった。

その瞬間、主人公への評価が変わったわけではない。

変わったのは、それまで自分の頭の中に作っていた景色だった。

たとえば、

「うちの犬を見に来て」

と言われて家へ行ったら、そこにいたのが首輪をつけられた人間だった。

そんな感覚に近い。

「え?」

「何これ?」

「思っていたものと全然違う」

それまで自然に成立していた映像が、一瞬ですべて別のものに置き換わる。

これは小説だからこそできる仕掛けだと思った。

周囲の思いやりまで、読者の認知を騙す

さらにすごいのが、主人公だけではなく、周囲の人物まで同じ言葉を使っていることだ。

主人公がそれを「妹」と呼ぶ。

周囲も、主人公がそう思っていることを知っているから、それに合わせて「妹」と呼ぶ。

すると読者から見ると、

主人公も妹と言っている。

周囲も妹と言っている。

なら当然、人間の妹なのだろう。

と認識する。

しかし実際には、同じ言葉を使っているだけで、それぞれの頭に浮かんでいるものが一致しているとは限らない。

周囲の思いやりや配慮が、偶然にも主人公の狂った認知を補強する方向へ働いている。

本来なら優しさであるはずの行為が、読者にまで間違った世界を自然に信じ込ませる材料になる。

この構造は非常に面白かった。

周囲も、もう諦めていたのかもしれない

主人公に対して、誰も現実を伝えなかったとは思わない。

おそらく誰かは、一度くらい伝えたのではないかと思う。

しかし主人公は頭が良すぎる。

何を言っても変わらない。

何度訂正しても、自分の世界の中で処理されてしまう。

そうなれば周囲も、

「もう、そういうものだと思って接した方が楽だ」

となるのではないか。

それは思いやりでもあり、諦めでもある。

ある意味では正しい対応なのかもしれない。

自分なら、それでも少し聞いてみたくなる。

なぜそう思っているのか。

どういう経緯でそう認識するようになったのか。

本当に心からそう思っているのか。

間違いを訂正したいというより、どうやってその世界が本人の中に作られたのかが気になる。

母親も、すでに正常な状態ではなかったのかもしれない

母親については、主人公を理解しようとしていたというより、それどころではなかったように感じた。

精神的に崩壊しかけていたのではないかと思う。

そして、その母親を唯一つなぎ止めていたのが、もしかすると主人公だった。

元々正常だった人間が少し狂い、その狂った部分と主人公の狂気が偶然接続する。

そこで二人の世界が成立してしまった。

人間同士のつながりが必ずしも現実へ戻してくれるとは限らない。

狂った者同士が接続すれば、その狂った世界が日常として成立してしまうこともある。

これもかなり恐ろしい。

後味は非常に悪い

読み終わったあとの後味は、かなり悪かった。

しかし、作品がつまらなかったという意味ではない。

むしろ、人間そのものの怖さに気づかされた結果だと思う。

人間は認知に頼り切って世界を見ている。

そして、その認知は固定されたものではなく、経験によって常に塗り替えられていく。

認知が変わることは、成長するために必要だ。

しかし、その更新先が正しいという保証もない。

更新しないことも危険。

更新したから安全というわけでもない。

結局、人間は完全には信用できない自分自身の認知を使って、世界を判断し続けるしかない。

まとめ

自分にとって『向日葵の咲かない夏』は、

認知と思いやりと、狂った世界を無理やり日常化させた物語

だった。

主人公だけではない。

登場人物も大概狂っている。

それでも、それぞれがそれぞれの世界で生活し、その狂った状態が日常として成立している。

そして読者自身も、小説という媒体の特性によって、その狂った世界を途中まで自然なものとして認識させられる。

認知の恐ろしさを考えたい人。

そして、文章で細部をあえて描かないことによって、読者自身の認知を利用し、最後にそれを覆す小説ならではの仕掛けを面白いと思える人には、かなり印象に残る作品だと思う。

後味は悪い。

でも、その後味の悪さこそが、この作品の恐ろしさなのだと思う。


向日葵の咲かない夏(新潮文庫)Kindle版

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