森博嗣『すべてがFになる』を読んだ。
ミステリーとして見れば、まずトリックがすごい。
よくこんなことを考えるなと思う。
でも読み終わって一番強く残ったものは、トリックそのものではなかった。
真賀田四季という人間だった。
天才。
確かにそうなのだと思う。
でも、自分には「天才」という言葉ですら少し足りないように感じた。
一般社会で一流と呼ばれる人。
普通の人間から見れば、到底追いつけないような頭脳を持つ人。
そんな人間ですら、さらに上を見れば絶対に届かない存在がいる。
『すべてがFになる』を読んで感じたのは、
天才にも、とんでもない格差がある
ということだった。
一般人から見れば、犀川ですら測れない天才
犀川創平も、当然ながら自分とは比べようもないほど頭がいい。
普通の社会にいれば、十分すぎるほど天才と呼ばれる人間だと思う。
自分から見れば、犀川も真賀田四季も両方とも測定不能。
どちらがどの程度すごいのかなんて、本当の意味では分からない。
ただ、二人を見ていると、
同じ天才でも種類が違う
ように感じた。
犀川の領域には、もちろん生まれ持った才能が必要だと思う。
それでも、ある程度の素質を持った人間なら、知識を増やし、経験を積み、努力を続けることで少しずつ距離を縮められるような気がする。
追いつけるとは思わない。
でも、
同じ道を歩いている感じ
はする。
四季には、それがない。
真賀田四季は、そもそも見えている世界が違う
四季について考えると、
努力という言葉では片づけられない
と思ってしまう。
頭の回転が速いとか。
計算が得意とか。
知識量が多いとか。
そういう能力の延長線上にいるように見えない。
もっと根本的なところで、
世界を見る方法そのものが違う。
そんな感じがした。
だから自分は、四季のようになりたいとはあまり思わない。
でも、
一度だけ経験してみたい。
四季の目で世界を見たら、何が見えるのか。
人を見る時。
数字を見る時。
何かを考える時。
自分たちには見えないものが、どんな形で見えているのか。
その感覚には興味がある。
ただ同時に、
実際に体験しても、自分には理解できないのだろう
という気もする。
何が見えているかを一瞬共有できても、なぜそれが見えるのかは分からない。
そのくらい遠い存在に感じた。
人を操るというより、反応が見えている
四季を見ていると、人間を操っているようにも見える。
でも自分には、
「操っている」より「予測している」
という印象のほうが強かった。
普通の人間は何かを言う。
すると相手がどう反応するかは、実際に言ってみるまで分からない。
もちろん予想はできる。
でも外れることもある。
四季の場合は、その精度が異常に高い。
この言葉を出せば、この人はこう返す。
ここでこう行動すれば、次にこれが起きる。
そういうものが、行動する前からほとんど見えているように感じる。
その結果、周囲から見ると、
「全部、四季に操られている」
ように見える。
でも四季本人からすれば、
想定していた出来事を順番に処理しているだけ
なのかもしれない。
天才すぎると「自然に振る舞う」ことすら難しいのかもしれない
ここで少し考えた。
四季にも当然、個人としての感情はあるのだと思う。
嬉しい。
嫌だ。
好き。
興味がある。
そういったものまで消えているわけではない。
でも、自分の表現によって相手がどう動くのかが分かりすぎるとしたら、
自然に感情を表現すること自体が難しくなるのではないか。
普通なら、
「思ったから言った」
で終わる。
でも四季の場合、
「これを言えば相手はこう動く」
まで同時に分かってしまう。
そうなると、本心をそのまま言っただけでも、結果として人を動かすことになる。
本人に操作する意図がなくても、
表現した時点で操作になってしまう。
それはかなり不自由なのではないかと思った。
四季は孤独に見える
真賀田四季は、かなり孤独な存在に見えた。
でも、
孤独=不幸
と考えるのは、あくまで自分の価値観なのだと思う。
自分なら、自分と同じくらい物事を理解できる人が周りにいてほしいと思うかもしれない。
でも四季は違う可能性がある。
相手の行動がほぼ読める。
世界の動きも予測できる。
その状態のほうが、日常生活としては安定しているのかもしれない。
逆に、もし本当に四季についていける人間が現れたらどうなるのか。
その人だけは行動が読みづらい。
予測を外してくる。
四季にとっては珍しく、
「次に何が起こるか分からない」
存在になる。
それはきっと面白い。
ワクワクするかもしれない。
でも同時に、日常へ突然ランダムな要素が入り込んでくることにもなる。
刺激としては面白くても、
毎日そばにいてほしい存在とは限らない。
そう考えると、四季にとって孤独であることは、必ずしも悪いことではないのかもしれない。
犀川は「評価されている存在」
犀川と四季の関係も面白かった。
自分には、
対等なライバル
という感じにはあまり見えなかった。
四季から見れば、犀川の行動も恐らくほとんど予測できる。
それでも、その他大勢とは違う。
考える力がある。
理解できる。
そこは認めている。
そんな距離感に感じた。
例えるなら、
先生と、かなり出来のいい生徒。
犀川は一般社会なら十分すぎるほど天才。
でも四季の前に立つと、まだ教わる側に見える。
そこが、この作品で感じた「天才同士の格差」を強くしていた。
萌絵も普通の人ではない
西之園萌絵については、あまり強く印象に残らなかった。
理由は単純で、
四季と犀川の存在感が強すぎる。
ただ、萌絵も普通の人間ではないと思う。
絶対的な計算能力という意味では四季とは違う。
でも、
物事を見る視点や、考え方そのものが常人とは少し違う。
そんな印象はあった。
だから完全な「読者の代理」でもない。
読者に近い場所に立ってはいる。
でも、こちら側へ完全に降りてきてくれる人でもない。
登場人物全体に、
「なんか頭のいい人たちの世界を外から見ている」
ような距離を感じた。
トリックは、四季の天才性を見せるためにも使われている
もちろん、この作品のトリックはすごい。
純粋に、
「よくこんなこと考えたな」
と思った。
ただ、自分にはトリックそのもの以上に、
このトリックを成立させられる四季という人間がどれだけ異常なのか
を見せる役割もあるように感じた。
普通ならトリックが分かれば、
「ああ、そういう仕組みだったのか!」
となる。
でも今回は、その次に、
「いや、待て。そこまでしてこれをやるのか?」
と思った。
計画する。
準備する。
長い時間をかける。
未来の状況まで考える。
そこまでやって、ようやく成立する。
すごい。
でも同時に、
そこまでしてでも、今の状態から抜け出したかったのか
とも感じた。
本当に不自由だったのではないか
四季は、かなり不自由を感じていたのではないかと思う。
それは単に、
閉じ込められているから外へ出たい
という肉体的な不自由だけではない。
もっと精神的なもの。
他人から、
「天才」
「危険な存在」
「真賀田四季という人間」
として見られ続けること。
そこにいる限り、死なない限り、そのラベルから逃げることはできない。
何をしても、
「天才の真賀田四季がやったこと」
として解釈される。
それ自体が巨大な檻だったのではないか。
ラベルを全部剥がして、空白になりたかったのかもしれない
だから四季が求めた自由は、
管理されないこと
だけではなかったように感じる。
自分を定義するものを一度全部なくす。
天才。
恐怖。
研究対象。
犯罪者。
真賀田四季。
そういったものを一度すべて無効にする。
存在がなくなるわけではない。
でも、
外から見える自分を一度ゼロにする。
そこから初めて、本当の意味で自由に生きられる。
そんな感覚だったのではないかと思った。
コンピュータ的に言えば、
FFFFまで進んでオーバーフローするようなものだろうか。
内部では何かが続いている。
でも外側から見える値は、まるでゼロになったように見える。
存在しているのに、観測する側からは追えなくなる。
四季にとって、本当にやりたいことはその先にあったのかもしれない。
『すべてがFになる』というタイトル
タイトルについては、そこまで人生哲学的な意味を感じたわけではない。
自分には、
トリックを前面に出すためのタイトル
という印象が強かった。
そして、それが大事なのだと思う。
真賀田四季本人には、普通の読者はどうやってもつながれない。
あまりにも異質だからだ。
彼女が何を見て、何を考えているのか。
完全に共有することはできない。
でも、
トリックなら読者にも考えられる。
Fとは何なのか。
密室はどう成立したのか。
何が起きているのか。
そういう「解ける謎」を間に置くことで、読者はかろうじて四季の世界へ触れることができる。
自分には、トリックが
四季と読者をつなぐ一本の細い線
のようにも見えた。
トリックそのものは理解できる。
でも理解した結果、
「これを実行する人間のことは、やっぱり理解できない」
となる。
そこが面白い。
プロという言葉でも到底足りない
『舟を編む』を読んだ時には、
プロフェッショナルとはこういう人たちなのだろう
と思った。
努力する。
積み上げる。
自分の仕事を極める。
それは非常に格好良かった。
でも真賀田四季を見ていると、
プロという言葉では到底足りない。
努力。
知識。
経験。
技術。
そういうものを全部積み上げても、まだ説明できない。
もはや、
神に近い存在
のように感じた。
人間社会の中にいる。
人間の姿をしている。
人間と話している。
でも、見えている世界は自分たちとは違う。
そんな存在。
まとめ
『すべてがFになる』は、ミステリーとしてトリックが非常に面白い作品だった。
だから勧めるなら、
ミステリーが好きな人。
特にトリックを考えるのが好きな人。
そこが一番だと思う。
トリックだけでも十分に読む価値がある。
ただ、自分に一番残ったものは別だった。
真賀田四季という存在。
犀川ですら普通の人間から見れば到底届かない天才。
その犀川から見ても、さらに遠い場所にいる四季。
一般人。
一流。
天才。
その先。
そんな階層が存在することを、まざまざと見せられたような感覚だった。
四季を理解できたとはまったく思わない。
恐らく、どうやっても理解できない。
でも、
遥か高みにいる存在を、一瞬だけ下から見上げた。
そんな読後感だった。
トリックは理解できる。
事件も追える。
でも四季本人だけは、最後まで遠い。
もしかすると、
その距離こそが真賀田四季というキャラクターの魅力なのかもしれない。



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