※この記事は『アルジャーノンに花束を』の内容に触れています。
『アルジャーノンに花束を』を振り返ったとき、自分の中で強く残っているものが二つある。
一つは、周囲からどう見られているのかを知ってしまうことの怖さ。
もう一つは、自分が少しずつ失われていくことへの恐怖だ。
この作品は、主人公の境遇そのものに感情移入すれば、とても悲しい物語だと思う。
ただ自分は、少し違うところを見ながら読んでいたような気がする。
主人公は本当に不幸だったのだろうか。
賢くなる前と後では、どちらが幸せだったのだろうか。
そして、一度変わった人間が元に戻ったとき、本人と周囲は本当に同じ場所へ戻れるのだろうか。
そんなことを考えた。
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アルジャーノンに花束を〔新装版〕(ハヤカワ文庫NV) [ ダニエル・キイス ]
幸せの基準は、その時によって変わる
賢くなる前の主人公と、賢くなった後の主人公。
どちらの方が幸せだったのか。
自分は、どちらもその時点では幸せだったのではないかと思う。
ただ、「何を幸せだと思うのか」が変わった。
例えば砂漠で遭難している人にとって、水を見つけることは大きな幸せになる。
一方、現代社会で何不自由なく暮らしている人なら、資産を増やすことを幸せだと思うかもしれない。
同じ人間でも、置かれている状況によって幸せの基準は変わる。
主人公も同じだったのではないか。
知性を得る前には、そのときの世界の中に幸せがあった。
知性を得れば見える世界が広がり、それまでとは違うものを求めるようになる。
つまり知性が増えたことで、単純に「幸せが増えた」のではなく、幸福を測る物差しそのものが変わったように感じた。
知らなかったから幸せだったこともある
主人公が賢くなることで苦しんだ理由は、知性そのものよりも、今まで見えなかったものが見えるようになったことなのだと思う。
周囲の人間が自分をどう見ていたのか。
自分が思っていた人間関係と、実際の人間関係。
自分自身が信じていた自分の姿。
それらが少しずつズレていたことを知っていく。
本人からすれば、それは大きな喪失だったのではないか。
しかし第三者から見ると、少し話が変わる。
主人公が知らなかった時期について、周囲の人間は、
「それは本当に幸せだったのだろうか」
と思うかもしれない。
本人は幸せだと思っている。
でも、周囲から見れば不幸に見える。
このズレが面白い。
結局、幸せというものは本人の感覚だけで決まるのか。
それとも、本人が知らない現実まで含めて判断するものなのか。
自分には答えが出ない。
それでも自分なら知りたい
もし、
「知らないままなら幸せでいられる」
と言われたら、自分ならどうするだろう。
たぶん、自分は知る方を選ぶ。
そして知ったあとになって、
「知らなかった方が良かったのかもしれないな」
と思うタイプだと思う。
それでも知る方向へ走る。
真実を知ることが、必ず幸せにつながるとは思わない。
知らないことで守られている幸福もある。
でも、自分の場合は後悔する可能性があっても、知りたい。
『アルジャーノンに花束を』には、そんな「知ること」の残酷さもあるように感じた。
一度変わった自分は、元に戻れるのか
主人公は一度大きく変わり、その後また以前の状態へ近づいていく。
自分は、本人だけを見るなら、最終的には「元に戻った」と考えてもいいのではないかと思った。
覚えていないのであれば、以前の自分と大きく変わらない。
ただし、周囲はそうはいかない。
周囲は一度、変わった主人公を知っている。
知性を得た姿。
今までとは違う世界を見る姿。
そして、その状態から少しずつ失われていく姿。
それを見てしまった周囲の人間は、もう昔とまったく同じ目では主人公を見ることができない。
本人は戻れても、周囲は戻れない。
そこが非常に残酷だと思った。
本人が忘れてしまったものを、他人だけが覚えている。
主人公自身にとっては失われた時間でも、周囲の人間の記憶の中では確かに存在している。
「賢かった自分」は別人だったのか
ここまで考えると、一つ疑問が出てくる。
知性を得ていた期間の主人公は、元の主人公と同じ人間だったのだろうか。
自分には、少し別人のようにも思える。
ただ、人間を同じ人間にしているものが何なのかは難しい。
記憶なのか。
性格なのか。
身体なのか。
記憶を失ったとしても、性格がまったく変わらないのであれば、自分は同じ人だと感じるかもしれない。
しかし性格そのものが、今までの記憶や経験から作られている部分も大きいと思う。
記憶が大きく変われば、世界の見方も変わる。
価値観も変わる。
性格も変わる。
そうなれば、同じ身体であっても「別の人間」に近づいていくのかもしれない。
主人公には、一度別の自分が生まれ、その自分が消えていった。
そんな見方もできるように思った。
一番怖いのは、失っていく途中なのかもしれない
完全に以前の状態へ戻ってしまえば、本人は多くを覚えていない。
だから本人にとって一番怖いのは、むしろ失っていく途中なのではないかと思う。
昨日までできたことができなくなる。
覚えていたものが消えていく。
自分の能力が落ちていることを、自分自身で理解できてしまう。
自分が少しずつ消えていく。
人間は死を怖がる。
普通なら、自分がいつ死ぬか分からないという不確実さも、その恐怖の一部なのだと思う。
しかしこの作品を読んでいると、
たとえ終わりが近づいていることを知っていても、やっぱり怖いものは怖い
のだと感じる。
むしろ、自分が失われていく時期を理解しながら待つことには、別の恐怖があるのかもしれない。
本人の幸福と、社会にとっての価値は別
では、この実験はやらない方が良かったのだろうか。
主人公本人の人生だけを見るなら、何とも言えない。
最終的に元へ戻るのであれば、本人にとっては人生全体を大きく変えなかったとも考えられる。
しかし社会的に見れば話は違う。
あの経験によって得られたものには、大きな価値がある。
研究として残るものもある。
主人公一人の中では一時的だった変化が、社会には功績として残る。
つまり、
本人にとって価値があったのか
と、
社会にとって価値があったのか
は、同じ問いではない。
本人の幸福と社会的な価値は、必ずしも一致しないのだと思う。
周囲の目が集まると、それが社会になる
この作品でもう一つ怖いと思ったのが、周囲からの目だった。
一人の人間が誰かを見る。
「かわいそうだ」
「変わった人だ」
「優秀だ」
「以前とは違う」
それ自体は、単なる一人の感想なのかもしれない。
しかし、その視線が何十人、何百人と集まれば、それは社会の評価になる。
そしてその社会的な評価によって、人は居場所を失うこともある。
ある意味では、肉体的な死とは別に、社会的な死のようなものが存在する。
主人公本人がどう思っているかとは別に、周囲がその人をどう認識するかによって、その人の社会での存在の仕方が変わってしまう。
一人ひとりの目は小さくても、それが集まったときには非常に大きな力になる。
そこに社会の厳しさを感じた。
「かわいそう」だけでは終わらなかった
『アルジャーノンに花束を』は、主人公の境遇をかわいそうだと思える人ほど、強く刺さる作品なのだと思う。
実際、とても悲しい物語だ。
ただ自分は、そこから少し外れたところを考えていた。
本人にとっての幸せとは何なのか。
周囲から見た幸せとは何なのか。
知ることは幸せなのか。
人間は何をもって同じ人間なのか。
本人の幸福と、社会にとっての価値は同じなのか。
そして、死ぬ時期が分かっていたとしても、人はなぜ死を怖がるのか。
かなり穿った、偏屈な読み方なのかもしれない。
それでも、自分にはそういう部分が印象に残った。
この作品を読んで、
「主人公の境遇がかわいそうだ」
と感じる人には、きっと深く刺さると思う。
そしてそこからもう少しだけ離れて眺めてみると、幸せや知性、社会、人間の存在そのものについて、かなり色々なことを考えられる作品でもあると思う。



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